✔︎今日の本
綿矢りさ『ウォーク・イン・クローゼット』(講談社,2015)

Photo: smoky / s-t-r-a-n-g-e

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「この前のテレビ越しに私にくださったメッセージの、真意を教えてくださいませんか」

「いなか、の、すとーかー」の主人公は郷里に戻り、陶芸家となった男だ。全てが順調だったがテレビ出演をきっかけにストーカーがあらわれ、彼の生活はだんだんとその対応に追われるようになっていく。あまり、小説の作品に、作者本人のことを重ね合わせたくはないけれど、ストーカーに悩まされ続けた陶芸家、石居が最後に到達する心境を思うと、芥川賞フィーバーでストーカー被害を受けたこともあるという作者の過去が生きている作品なのではないかと思わずにいられない。メディアの過熱や、創作のスランプを抜け、精力的に作品を発表し続ける作者の言葉は、真っ直ぐでいてずしりと重たい。

石居は陶芸家として作品を世の中に「発信」している。規模の差こそあれ、社会に出て仕事をするということは、「発信する」ということだ。自分は頑張っている、というメッセージを「発信」しているつもりでも、周りの人たちはそういうメッセージを読み取ってくれない、とか、そんなことは恐らく世界のどこでも起きていて、広く世の中の人たちに向けたものなのか、周りのごく一部に向けたものなのかの違いこそあれ、目の前の課題をこなし、それを発信して、互いに理解しあったり誤解したりして、私たちは社会と関係を築いている。

全てが狂うのは、そういうメッセージを「自分に都合の良いようにしか解釈できない」人たちも少なからず存在するということだ。疎ましい。面倒臭い。関わり合いたくない。普通だったらそう考えるだろう。悪いのは自分のことしか考えられないお前だ、と言ってやりたくもなるだろう。ただ、究極的に自分の世界しか見えていない種類の人間、すなわち、「ストーカー」を相手とした場合、どうなるだろう。諦めるか、逃げるのか。それは本当に解決策となるのか。

現実的に(ストーカー対策的に)、石居がとった「解決策」、到達した境地は最良のものではないのかもしれないが、自分が発信して捻れて歪んだメッセージを、どう受け止めるのか、彼の下した決断は真っ直ぐで、重い。

なら、私の服と一緒だ。私たちは服で武装して、欲しいものを掴みとろうとしている。

だれが何と言おうと、人は見た目で判断されてしまう、そのことに「ウォーク・イン・クローゼット」の主人公、早希は自覚的だ。だからこそ彼女はやりすぎとも言えるくらいに、自分自身が着たいと思う洋服は選ばない。徹底的に「モテる服」、それだけが彼女の基準だ。彼女の外面に「自分」はない。言わば彼女の外面は「モテる服で固めた女性」というメッセージを積極的に発信している。

外面に、つまり彼女が歩きながら発信しているメッセージに「自分」がないから、彼女は誤解されてしまう。自分が大事にしていることを、大事だと思ってもらえない。

でも彼女はそのことで傷ついてみたりするけれど、必要以上に落ち込んだりすることはないし、自分を卑下したりもしないし、「モテる服」を判断基準とする自分を変えたりしようとも思わない。あくまでも彼女は彼女自身で「欲しいものを掴みとろう」としている。そこが真っ直ぐで、21世紀ぽくもあり、早希みたいな洋服の選び方をする子には個人的には共感できないけれど、そこに反感はない。

彼女が発信するメッセージがどんなに誤解されようが、彼女は自分自身が発信するメッセージに責任を負っている。彼女は自分に対する誤解を真っ直ぐに受け止めるし、それでも前に進もうとする。

「いなか、の、すとーかー」も「ウォーク・イン・クローゼット」も、「自分が知らず知らずのうちに発信しているメッセージと、そのコミュニケーションのなかで発生する不可避な誤解、ディスコミュニケーションとどのようにして向き合うのか」という物語であり、日常生活の全てを発信できるソーシャルネットワーク時代を生きる人々への警鐘でもあり讃歌でもあるのだ。*

* メッセージを発信するのはテレビやファッションなどで、「インターネット」ではないけれど、あえてインターネットが小説のなかに出てきていないのは、生活のなかで生まれるメッセージを際立たせるための戦略だろうと解釈しています。

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✔︎すてきなクローゼットの画像

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